2006年08月28日 23:00
「アララガマ精神」とか、「アララガマ魂」とか。
なんだかこの「アララガマ」という言葉が、あまりにも美化されているような気がします。
特に、よその島の人に説明する時は、言葉の背景を説明することなく単純に「アララガマ精神=不屈の精神」とのみ教えがちです。
そういうと、とても格好良く聞こえるから、いつも心配になります。
もとは、あまり良い言葉ではないのです。決して軽々しくは、言って欲しくない言葉です。
だから、自戒の意味も含めて、ここに書きます。
敵をつくってしまうかも知れませんが、覚悟の上です。
ご気分を害される方がいらっしゃるかも知れません。先にお詫び申し上げます。
例によってこれも複合語です。「アララ」+「ガマ」で「アララガマ」。
それで、まずは「アララ」という感嘆詞を普段どういう時に発するか、ご紹介します。
異臭を放つ雑巾、管理されていない公衆トイレ、視界に入った酔っぱらいの体内合成物、等々。「アララーィ」と、語尾を伸ばして、最後を「イ」に跳ねることもある。
空から鳥の糞が降ってきた日には、「急激な驚き」の部類ですから、早口で。スペイン人もびっくりの巻き舌で、「アララッ!」と。
友達のギャグがつまらない。くだらない。オヤジギャグ~。というときに、冷ややか~な目線で低~い声でゆっくりと「アララ~」もしくは「アララ~イ」。
こっちの語尾の「イ」は、先の例よりもややはっきりと聞こえる気がする。
例えばこんな会話例でどうでしょう。
釣りに行っていたAさんが帰ってきました。BさんがAさんに声をかけます。
B 「大きいの、連れたかー?」
A 「おー、コンバカー(これぐらい)の、ダイバンもの!」
これぐらい、とAさんは両手を広げるジェスチャーをしてみせます。そこで、
B 「ンジ(どれ)、ミシミール(見せてみろ)」
ここでAさんは、実物を披露。
が、実寸は30センチぐらいでした!
それを見たBさんは、きっと言うでしょう。
B 「…アララっ。イミーイミ(ちっちゃ~)」
まあ、そんな感じの言葉です。
「~ガマ」は、沖縄本島で言う「~グヮー」に相当。
ちいさきもの、かわいいもの。
通常は、そんな名詞(代名詞や人名も含む)のあとについて、人や物に愛情をかける接尾辞です。「カナシャガマ(愛しき人、子)」「鳥ガマ[tuïz - gama](小鳥さん)」「ピィッチャガマ(ほんのちょっと「だけ」)」「茶がま、飲み~[tsa:gama: numi:](ちょっとお茶でも飲んでいきなさいよ)」…。
ちいさきもの、かわいいもの。
ところがそれを悪い意味に返せば、「大したことのないもの」。上位者から下位のものを見くだすようなニュアンス。
悪い言葉に付くときは、そういう意味になるのです。
例えば前出の「ピィッチャガマ」も、発する状況によっては「これだけしかくれないの、ケチ!!」というような感じになる。
思い出せる一番近い例は…。
数年前、祖母とふたりで昼食を取っていたときのこと。
祖母が箸で、小皿から茶碗におかずを移していたその途中で、ダダ(擬態語)とこぼしてしまったのです。
そのとき、テーブルの上に落ちた食べ物を拾いながら※、祖母が発した言葉が「アララガマ」でした。
「いやだねぇ、年を取るとこんな風にこぼすようになっちゃって。」
きっとそんな気持ちで言ったのだと思います。歳をとって体力の落ちた自分への愚痴として。
※余談ですが、「おいしいものにはゴミはつかない」という昔からの思想に従って、祖母は、こぼしてしまったものでもちゃんと食べます。食べ物が自由に手に入らなかった時代の言い習わしですが、今も島内には根強く残っています。衛生状況なんのその。
では、「不屈の精神」と代替される場合、これは何に向けて発された言葉なのか。
「不屈」と言い換えられるにはもちろん、それなりの意志があるのです。
まず、困難をつくった対象(相手)に向かっては言わない。例えば「なんだこの課題、誰だこんなのつくったやつ」。それだと相手に文句を言うだけで、何も変わらない。進展なしです。むしろ仲は悪くなるでしょう。
では、自分に対して言うのはどうかというと、いい場合と悪い場合の2通りがある。
「まさか、私こんなこともできないの?」いや、できないわけない。やってやる。そう言う意味でならば自分に対しても言って良いと思います。
でもうしろ向きになってしまって、「自分ってこの程度の人間なんだ」と蔑むように言ってしまっては、困難の壁をますます厚塗りにするようなもので、逆効果。前出の、歳をとってしまったことを愚痴る祖母の例も、可哀想だけれどこの一類。
そして、なにより言うべき対象は、「困難」そのものに対してではないでしょうか。どんなに高い壁でも、「なんだこれぐらい、自分にとっては大したことない、超えられるさ」。そう言い聞かせて、立ち向かう力にすること。
そうやって、人頭税や、幾度の飢饉や災害といった、歴史上の数え切れない災禍、「島」である故の不便さなど、多くの困難を乗り越えてきた先人達の姿勢をいま、「アララガマ精神」と呼んでいるのです。「アララガマ」という語と「精神」という語の間には、たくさんの言葉が略されているのでしょう。どなたが最初に言い始めた言葉か、今は調べるすべがありませんが、動作が見えるような、この島の言葉で表したかったのだと思います。
「困難」という、目に見えない、抽象的な概念に対して言葉をかける。
なんだかとても不思議な行為に感じます。
但しその言葉は、相手を否定する語です。蔑む言葉です。
だから逆に、具体のもの、特に命のあるものに対しては言わない。決して言ってはいけない。
時々、使われ方に違和感を感じます。
自分でも、言ってしまってから、ああ、と反省することも良くあります。
「きついけどがんばろーねー♪」なんてレベルで、言っていいものではない。
もっともっと、精神の深いところの葛藤があるような気がする。
でなければ、たとえ抽象のものに対してであっても、むやみやたらに罵倒の語を浴びせるものだろうか、と。
だからどうか、忘れないでいて下さい。
この言葉に込められたものが、重さを失ってしまわないように。
参考文献・資料等なし
…こんなことを書いてしまった以上、何よりこのブログが「アララ~イ」といわれる対象とならないよう、がんばろう。